草迷宮

第28回 東京国際映画祭 寺山修司生誕80年 TERAYAMA FILMS

寺山修司が描く母と子の禁断の関係

TERAYAMA FILMS

 ひとりの青年が、子供の頃に聴いた手まり歌の歌詞を訪ね歩いている。それは母が口ずさんでいた歌。その旋律はかすかに記憶の中に残っているが、歌詞の内容は忘却の彼方に消え去ってしまった。そもそも母を知らない人たちに母の歌を教えてもらおうというのだから、どこの誰を訪ねたところでこれは雲をつかむような話だ。旅の中で思い出されるのは、美しかった母の面影。父のいない家庭で、母は女手ひとつで自分を育ててくれた。家の土蔵で暮らす千代女という名の若い狂女に襲われ、大あわてで逃げ出したこともあった。そのことを話すと、母は厳しく自分を叱りつけたものだ。脱走兵と心中した少女の面影。その脱走兵の姿は、なぜか自分の父の姿とだぶるのだ。手まり歌の手掛かりは、追いかけていくと手もとから逃げ出してしまう。ひょっとして、すべてが夢だったのではないかと思うほどだ。母との思い出は、どこまでが本当なのだろう? 青年の旅は終わらない。

 泉鏡花の同名小説をもとに、寺山修司と岸田理生が共同で脚本を書き、寺山修司が監督している。もともとはオムニバス映画の中の1挿話として作られたため、上映時間40分の短編に仕上がっている。物語の語り手であり、母の手まり歌を探し歩く旅人を演じるのは若松武(現・若松武史)。その少年時代を本作がデビュー作の三上博史が演じている。母親役の新高恵子はこの数年後、寺山修司が亡くなると女優を引退してしまったようだ。この映画の特徴は極彩色でグロテスクな美術にあるのだが、劇中の挿画を担当しているのは花輪和一だという。美術の方向性としては「大正ロマン」なのだが、そこにあるのは大正時代のリアルな風俗ではなく、記号化され、パロディ化された、フィクションとしての「大正ロマン」だ。J・A・シーザー音楽はノスタルジックなわらべ歌から、劇中のドラマ展開に合わせビートの効いたハードロック調の楽曲へとメタモルフォーゼしてみせる。

 青年の旅は終わらない。それは彼の旅が、近親相姦のタブーに関わるからだ。青年は夢の中で、母親と抱き合う自分自身の姿を見る。だがそれは実際の風景なのだろうか? それは母を慕う青年が夢想する、幻想の母子関係ではなかったのか? それが現実の風景だとしたら、母を抱く自分自身の姿をもうひとりの自分が見つめるのは不自然ではないのか? この映画はエディプスコンプレックスにまつわるファンタジーなのだ。少年は母と結ばれることを願い、その邪魔をする父を憎む。これがエディプスコンプレックスだが、少年の家には最初から父が不在なので邪魔者はいない。だが母と息子の関係はタブーであり、それは少年の心の中に強い内面的な葛藤を生み出していく。その象徴が、映画終盤に登場する妖怪たちだろう。機織りの仕草や音、手まりの仕草とわらべ歌、「耳なし芳一」のように少年の体に文字を書き付ける母の姿が、ふたりのただならぬ関係を示唆している。

神楽座(KADOKAWA富士見ビル)にて
配給:なし
1979年|40分|日本、フランス|カラー|1.66 : 1|モノラル
公式HP: http://2015.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=235
IMDb: http://www.imdb.com/title/tt0229520/

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