フロッキング

公開未定

正義はかくも人間を残酷で暴力的にする

フロッキング

 住民同士が家族のように親密に暮らす、スウェーデンの小さな田舎町。だがその町で、住民たちを驚愕させる事件が起きた。女子高生のイェニフェルが、同級生のアレックスにレイプされたと訴え出たのだ。「そんな馬鹿な!」と町中の人が驚く。あのアレックスが、そんなことをするとは思えない。一方のイェニフェルはいろいろと問題のある女の子だし、彼女が何かの理由で口から出任せを言っているんじゃないだろうか。ちょっとしたイタズラ心? それとも悪意ある虚言? ひょっとすると精神状態がおかしくて、本当にそんなことが起きたと信じ込んでいるのかも……。町の人たちはアレックスと家族に同情し、イェニフェルを遠巻きに眺めるようになる。結局事件は司法の場に持ち込まれ、裁判所はアレックスに有罪の判決を下した。だがこれによって、イェニフェルと家族は町中の人の憎悪の対象になってしまう。それから町ぐるみで、彼女と家族への嫌がらせが始まる。

 映画はイェニフェルとアレックスの間にあった「事件」を直接は描かないため、観客はふたりの間に本当は何があったのかがさっぱりわからない。映画の前半は「そこで何があったのか?」というミステリーだ。だがこのミステリーの真相が、観客に直接明かされることはない。この映画はミステリーではなく、平和な田舎町に起きた事件によって、結束の固かった小さな共同体が分裂していく姿を描こうとした作品なのだ。Google翻訳によれば、原題の『Flocken』はスウェーデン語で「群れ」を意味する言葉らしい。この映画の主人公はイェニフェルでもアレックスでもない。ふたりを含めた町の住民すべて、あるいはこの映画を観ている観客も含めたすべての人たちが、この事件に巻き込まれて行く「群れ」を構成しているのだ。この映画に描かれた出来事は、遠い外国の特殊な事件だろうか? そうではないと思う。ここには現代の日本にも通じる人間の姿がある。

 映画の中にもネットを利用する人間たちが出てくるが、この映画が描いているのはセンセーショナルな事件に群がる無責任な「善意の人々」の姿なのだ。人々は自分たちを「正義」の側に置き、自分たちにとって我慢のならない「不正」に対して徹底的な攻撃を加える。町の人たちにとってアレックスは濡れ衣を着せられた被害者で、イェニフェルは金目当て(あるいは他の目的)で事件をでっち上げた不届きで恥知らずな女だ。人々はイェニフェルを攻撃する、彼女だけでなく、彼女の妹を、母親を、母親の交際相手を徹底的に痛めつける。そこで起きている出来事はいちいち醜悪だが、これは我々の知っている世界の中で日々起きているではないか。例えば福島で。例えば沖縄で。多数派に異を唱える人々は、「サヨク」や「反日」や「プロ市民」のレッテルを貼られて袋叩きにされている。多数派の中に埋もれている善意の人々は、自分たちの醜悪さを自覚していないだけなのだ。

(原題:Flocken)

第29回 東京国際映画祭(ユース)
TOHOシネマズ六本木ヒルズ(スクリーン4)にて
配給:未定
2015年|1時間49分|スウェーデン|カラー
公式HP: http://2016.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=235
IMDb: http://www.imdb.com/title/tt3749338/

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