フィクション。

公開未定

動機は小説のネタ作りだった

fiksi

 資産家の一人娘として何不自由のない暮らしをしているアリシャは、自分の生活がすべて父の監視下にあることにウンザリ。彼女は部屋の窓から見下ろすプールを、見慣れぬ青年が掃除していることに気づく。アリシャは彼に興味を持ち、その興味はやがて強い執着へと変わっていった。プール掃除が終わって彼がやって来なくなると、アリシャは彼が恋人と暮らすアパートの隣の部屋に住み始める。彼の名はバリ。小説家志望で、アパートの他の部屋に住む人たちをモデルにした小説を書いているのだという。だが書きかけの小説は、どれも途中でストップしたままだ。人々の暮らしが続いているのに、小説だけを完結させることがどうしてもできない。バリに好意を持つアリシャは、彼の小説執筆に協力しようとする。モデルになった人たちの人生が未完で小説も未完なら、小説を完結させるためにモデルの人生を完結させればいい……。アパートでは住民の連続不審死がはじまる。

 2008年製作のインドネシア映画だが、今回映画祭で上映されたプリントはかなり色褪せていて、まるで名画座で観る1970年代の映画のようだった。この映画に残念な部分があるとすれば、それが一番残念だ。物語は風変わりなサイコサスペンスなのだが、恐ろしさはあまり感じられなかった。アリシャの行動は確かに恐ろしいものだし、その行動を引き起こすことになったバリの戸惑いや苦悩もわかるのだが、映画にはとぼけたユーモアのようなものがある。アリシャは確かにおかしい。彼女の行動は最初から最後まで、まったくまともじゃないのだ。しかしその一方で、彼女にはどこか一途で健気なところもある。好きな男のために小説のモデルになった人たちの人生を完結させても、彼女自体にはまったく何の得もないだろう。だが彼女はそうした行動を取らずにいられない。それが彼女の愛の形なのだ。これは歪んだ愛の物語。悲しく滑稽なまでに純真な愛の物語なのだ。

 映画はアリシャの境遇とバリとの出会いを描く導入部に続いて、彼女がアパート住人の人生に次々とエンドマークを付けていく中間部、そして彼女自身の物語の結末と、その後の世界を描いている。先の展開が読めずにハラハラドキドキする映画だが、じつは映画の最期で明かされるのは、この物語全体がバリの小説の映画化になっているという種明かしだ。これは「小説家は自分の身に降りかかった事件をもとに小説を書きました」という結末ではない。タイトルにもある通り、これはすべてフィクション、つまり作り話なのだ。アリシャの不幸な生い立ち、アリシャとバリの馴れ初め、アパートに暮らす奇妙な人々とそこで起きる事件、そして劇的な結末まで、これらすべては最終的にすべて小説の中の出来事だというオチになっている。そう考えれば、映画の中でエピソードごとに大きく語り口が異なることも説明が付くではないか。アリシャ自身も架空の人物なのかもしれない。

(原題:Fiksi.)

第29回 東京国際映画祭(CROSSCUT ASIA)
TOHOシネマズ六本木ヒルズ(スクリーン5)にて
配給:未定
2008年|1時間48分|インドネシア|カラー
公式HP: http://2016.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=175
IMDb: http://www.imdb.com/title/tt1239435/

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