キネマの神様

これは山田洋次監督版の『影武者』だ

映画『キネマの神様』のチラシ画像

■あらすじ

 物心ついて以来、円山歩は父の郷直(ゴウ)にずっと悩まされている。酒好きで、ギャンブル中毒。周囲に借金してはギャンブルに注ぎ込み、不義理を重ねている。娘の歩も協力して一度全部清算したはずだが、再度得体の知れない業者から借金をしているようだ。

 そんな郷直は、かつて映画撮影所で助監督をしていたことがある。いつか監督になり、誰も観たことがないような映画を撮る日を夢見て、ベテラン監督や技師たちの下で修行の日々。そんな彼にとって気を許せる仲間と言えるのは、撮影所の映写技師・寺林新太郎(テラシン)と、撮影所前の食堂「ふな喜」の看板娘・淑子だった。

 ゴウは親友のテラシンが淑子に思いを寄せていることを知り、彼のために一肌脱ごうと決心する。だが本当のことを言えば、ゴウも淑子に好意を持っていたのだ。そして淑子も……。

 再び現代。ゴウのギャンブルと借金に業を煮やした歩と淑子は、ついに強硬手段に出た。

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カツベン!

12月13日(金)公開 全国ロードショー

映画史に材を採った笑えないコメディ

 大正時代初期。当時の人々を夢中にさせていたのは、何と言っても活動写真。関西のとある町に、活動のロケ隊がやって来る。主演は「目玉のまっちゃん」こと尾上松之助。監督は牧野省三。物珍しげに撮影を眺める町の子供たちの中に、俊太郎と梅子もいた。撮影からしばらくして活動の上映小屋に入り込んだ二人は、映画の中に自分たちが映り込んでいるのに大興奮。「俺は活動弁士になりたい」「私は映画に出て芝居をしたい」と夢を語り合う二人。それから十年。俊太郎は偽弁士として泥棒の片棒を担ぐ日々だ。だが警察の出動で一味の首領が逮捕された後、俊太郎は泥棒から足を洗って、憧れの活動弁士を本気で目指すことに決めた。雑用係としてもぐり込んだ青木館には、往年のスター弁士・山岡秋聲がいる。だがこの頃、山岡は酒に溺れてすっかり身を持ち崩していた。青木館を支えている人気弁士は若い茂木。だがライバルのタチバナ館は、茂木を引き抜こうとしていた。

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MIFUNE: THE LAST SAMURAI

5月12日(土)公開 有楽町スバル座ほか全国順次公開

三船敏郎なくして戦後チャンバラ映画なし!

 戦後の1950年代初頭から1970年代にかけて、海外から見た「日本人らしい日本人」「現代のサムライ」と言えば三船敏郎だった。中国山東省で日本人写真館主の息子として生まれた三船は、終戦後復員すると知人の紹介で東宝の撮影部に入社願書を出した。ことろがなぜか、これが東宝ニューフェイスの申し込みに紛れてしまった。こうして三船は、不本意ながら映画俳優になった。1947年のデビュー作『銀嶺の果て』で脚本を書いたのが黒澤明。黒澤はこの後、自身の作品に欠かせない俳優として三船敏郎を起用し続ける。『羅生門』(1950)のヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞で、主演の三船も日本を代表する映画俳優になった。以降は黒澤と三船の二人三脚で、『七人の侍』(1954)や『用心棒』(1961)など、映画史に残る数々の作品に出演し続けた。本作はそんな三船敏郎の姿を通して、日本映画の歴史を俯瞰してみせるドキュメンタリー映画だ。

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ヒッチコック/トリュフォー

12月10日(土)公開 新宿シネマカリテほか全国順次公開

名著「映画術」を補完する作品

ヒッチコック/トリュフォー

 1966年。ヌーヴェルヴァーグを代表する映画監督のひとりフランソワ・トリュフォーが聞き役となり、サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックを相手に長時間の取材を行ったインタビュー本「Hitchcock/Truffaut」が発売された。日本では「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」のタイトルで知られるこの本によって、アメリカでは職人的な娯楽映画の監督と考えられていたヒッチコックは世界的な「映画作家」のひとりとなる。またこの本は、これから映画監督を目指そうとする世界中の若者たちにとってのバイブルとなった。この映画は当時の取材に使われた録音テープや写真をもとにして歴史的なインタビューを再現すると共に、完成した本の中ではスチル写真で取り上げられているヒッチコック作品の名場面を映画の引用という形で補完している。さらにスコセッシを筆頭とする10人の映画監督たちが、この本の影響について語っている。

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薩チャン正ちゃん 〜戦後民主的独立プロ奮闘記〜

8月29日(土)公開予定 K’s cinemaほか全国順次公開

独立プロから見た戦後日本映画史

薩チャン正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮闘記

 戦後日本映画界は、東宝争議(1946〜48)とレッドパージ(1950)で大量の労働者を解雇追放した。そのまま映画界を去った者も多かったが、一部の映画人は自分たちで製作会社を作って新しい時代の映画作りに乗り出す。山本薩夫や今井正も東宝を離れ、既存の映画会社での仕事に行き詰まりを感じた新藤兼人は松竹を退社した。こうして1950年代から、独立プロの企画製作による新しいタイプの映画が次々に誕生することとなる。当時の日本はまだ米軍の統治下で、大手映画会社は占領軍の意向を伺いながら映画を作っていた。だが独立プロでは当時の時代の空気を敏感に汲み取りながら、大手では通りにくい企画を次々に映画化して映画ファンの支持を得ることになる。だが独立プロはどこも資金繰りが苦しく、スタッフも出演者も無償労働になることがしばしばだ。現場を支えていたのは、「少しでも良い映画が作りたい」という映画人としての情熱だけだった。

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